「タケちゃん!ちょっと上がって来いやぁ。」
十一月も中半、八ヶ岳はもう真っ白ですよ。里に雪が舞っても不思議ではありませんね。岩魚は産卵を終えたんでしょうか。今頃、エゴの陰で静かに春を待っているんでしょうね。そんな頃、中さんから仕事を貰ったんです。「はぁ〜」溜息も出ますよ。護岸工事の為の配線工事。要するに「護岸工事をするから、工事用の仮設電気を必要なだけ配線しろ」ってことなんですよ。仕事とは言え辛いですねぇ。その中さんが現場事務所の2階から私を呼んでるんです。中さんは、この現場の所長なんです。
「何っすかぁ?変更っすかぁ?」
「まぁ、いいからチョット暖ったまれや。ほぅ、そこぉ座ったい」・・俺は忙しいんだよぉ・・
中さんは私の二年上の先輩なんですけどね、そりゃぁもうヤンチャな先輩だったんですよ。当時、バイクで校舎中を走り回って、退学になった先輩なんです。それが今では、地元では有数な土建会社の専務ですよ。大好きな先輩なんですけど、やっぱりチョット怖いんです・・・
「タケちゃん、オイは昔っから釣りぃやってたわなぃ」
「えぇ、今ぁ岩魚っきりっすけど」・・この辺りの子供はみんなやってます・・
「おぉ、いいねぇ。ほいじゃぁ、山菜なんかも採るんだず?」
「そうっすねぇ。山菜もキノコも採りますよ。ウチのが好きっすから」・・釣りをやらなくても採ってます・・
「おぉ、ペソちゃんかぁ。ペソちゃん元気かぁ?昔しゃぁ可愛いかったっけなぁ。オラァと同級だっけなぁ」
「そうっすねぇ」・・同級ったって中さんの高校時代は三ヶ月・・
「ペソちゃん、息子ぉ生んだ時ゃぁチョット太ったでなぁ。もう何年も経つで、元ん戻っただず。そう言ゃぁ、オイんちの爺ちゃん元気だか?最近、ウチのババアが見かけねぇっつってたど」・・始まったよ、中さんのマシンガントーク・・俺は忙しいんだよぉ・・
「そうそう、来週な、伊豆行くでオイも行けやなぃ。メジナ釣らずぃ。マコも誘っといたで。ライフジャケットはオラァの貸すから心配すんなぃ。磯ブーツは用意しとけや。磯竿は持ってるだか?ペラペラペラペラ・・」
「オラァ磯釣りの道具なん、何んも持ってねぇっすよ」・・はぁ〜やっと喋れた・・
「ほうかぁ、ほいじゃぁ、これから買い行かずぃ。竿ぉなきゃぁ釣りんならねぇわなぁ。アハハハ・・」
「え?今からっすかぁ?オラァ仕事ぉ残ってるし、今日、金ねぇっすよ」・・俺、行くなんて言ってない・・
「いいわぃ、いいわぃ。雪ぃ舞ってきたで、今日は仕舞いだわ。金ぁ心配すんな。オラが出しといてやるでな。ほぉ、行くど」
「はぁ・・・」・・ヤバイ、押し切られた・・
「ただいま〜」いつもの弁当箱と新品の磯竿、バッカンと杓子と磯ブーツをぶら下げて家に帰ったんですよ。バッカンの中にはリールとウキと・・・仕掛け一式入ってます。それと「はじめての海釣り」が一冊。
「アンタ、あんしただ?竿なん買ってきただかぃ」カミサンはビックリ。只でさえ渓流竿、フライロッド、テンカラ竿で私の部屋はごった返しているのに、今度は磯竿を買ってきちゃったんですからね。
「実はなぁ・・・」今日の中さんとの話、包み隠さず、中さんを悪者にしないように、上手く説明しましょうか。
「そうなんだ。中ちゃんに押し切られちまっただね。アンタじゃ、言い返せねぇわねぇ」
「ははは・・」・・その通り・・
「いいんだねぇ?行ってきなぁ。中ちゃん、ああ見えても面倒見はいいでなぁ。マコちゃんも一緒ならアンタも気が楽なんだねぇか?」
「うん・・」・・助かったぁ・・
その夜、「はじめての海釣り」を傍らに仕掛け作りに励んだ私。まだ磯に立ったこともないのに、自ら行きたい訳でもないのに、ピカピカの竿を目の前に立てかけて仕掛けを作っていると、何だか幸せな気分になってしまったんです。遥か昔、父に初めて釣りに誘われた夜のように。
「アンタ、早く寝なよ」台所の片付けを終えたカミサンが覗きに来ましたね。
「おぅ。もう寝るで」・・もう一度ウキ止め作ってみよう・・
ポーン♪・・柱時計が、一つ、時を刻みました・・・
つづく

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