孤高の人
2003/06/09

「おっ、いらっしゃい・・・タケ、お湯割か?」
「うん、ボンジリとセセリ2本っつね」
「ん・・・」

行きつけの焼き鳥屋はこんな会話で始まるんです。
造り酒屋の倉庫を改造した店内は薄暗く、使い込んだ分厚いカウンターが黒い光を放っていますね。手斧で削った梁は、申し訳なさそうにぶら下った灯りの上で闇の中に隠れていますよ。まだ誰もいませんね。カウンターの中で、トーちゃんが炭を煽っているでしょう?この店のご主人ですよ。

「タケ、仕事は忙しいだか?」
病気で車椅子生活になったトーちゃんは、不自由な手で焼き鳥を焼き始めましたね。
「うん、そんなんでも無ぇやなぁ」
「そうか、ほんじゃぁ、毎日釣りでも行ってるだか?」
「うん、最近、夕方が調子いいでね。仕事帰りにチョコッとなぃ」
「ほぉ・・・」
「トーちゃん、今度釣ったら持って来っか?」
「いらね・・・」
「・・・」
トーちゃんは元気な頃、山の人だったんですよ。春は山菜、夏は岩魚、秋は茸…近所の誰よりも沢山採ってきたんです。昔の人ですからね、その場所を人には絶対教えないんですよ。朝早く家を出て10時過ぎには縁側でその日の収穫を広げていましたね。

「トーちゃん、今日釣ってたらな、ワラビが畑みてぇに生えてたでぇ」
「ん、そりゃぁ峠の料金所の下か?」
半分ずり落ちた眼鏡の奥から、上目遣いで私の様子を窺っていますね。
「うん、そうだよ。ありゃぁ採っても良いだかぃ?」
「いいさ・・・オラァよく採ったもんだわぃ」
「へ〜・・・」

会話が弾むわけでもなく、ましてや気の利いた酌婦がいるわけでもなく、トーちゃんのポツポツと話す昔話を肴に呑むのが心地良いんですよ。
「あら、タケちゃんいらっしゃい」
あ、奥さんが買い物から帰ってきましたね。カーちゃんですよ。
「あ、カーちゃん、まだ暖簾出てなかったけど・・・」
「いいさぁ、タケちゃん、今日峠で釣りしてたねぇ。軽トラ停まってたわぁ」
「はは・・・」

カーちゃんが奥へ消えると、カウンターは炭が弾け、鳥が焼きあがる音だけになってしまいましたね。
「タケ、釣れてるだか?」
「うん、何とかなぃ」
「沢ぁ、荒れてねぇかや?」
「トーちゃんが釣ってた頃から比べりゃぁ荒れたんだずなぁ」
「ん・・・」

眼鏡の奥に見えるトーちゃんの心情が妙に気になりますね。
「岩魚はなぁ・・・大事に釣らなきゃいけねぇど」
「うん・・・」
「種ぇ残してやんねぇとなぁ・・・」
「うん・・・」
「ほぉ、焼けたど・・・」
「うん・・・」

ふぅ、丁度いいほろ酔い加減になりましたね、そろそろ帰りましょうか。お客さんが来始める時間ですよ。
「トーちゃん、ご馳走さん。また来るわぃ」
「ん・・・」
「勘定、ここに置いとくでぇ」
「ん・・・」
カウンターを離れ、硝子格子を引こうとする私の背中で、
「おい、タケ」
トーちゃんが呼び止めましたよ。
「ミソサザイ・・・ミソサザイは鳴いてるか?」
「・・・」
「ミソサザイはまだ遊んでるか?」
「・・・うん・・・遊んでるで・・・」
「ん・・・そうか・・・」
「トーちゃん、今度一緒に行くか?」
「・・・ん・・・いや、行かね・・・」

谷の奥深く、今日もミソサザイは遊んでいました。
岩魚達は大岩の影で、ひっそりと、しかし逞しく生き続けていました。

・・・ミソサザイに会った日はなぁ、いい岩魚にも会えるでなぁ・・・

・・・うん・・・